私が介護を始めたのは

介護業界で働いている人なら介護保険制度が始まったのは2000年で、

それまでは措置制度という仕組みの中で介護が行われていたことはご存知でしょう。

現在のような『サービス』ではなく、行政による『施し』だったわけです。

 「うちの親はねたきりで、家で風呂に入れたりするのが大変だし、施設で引き取ってもらいたい」

 「うちのばぁちゃんは呆けて目が離せないから、昼間だけでもどこかで預かってもらえないかな」

という家族の訴えを受けて、役所が適当な施設をあてがっていたんです。

私が大学を出て、京都のいわゆる老人病院に勤めたのが1996年。

介護保険がスタートする4年前です。

ちなみに卒業した大学は、福祉系でも医療系でもなく、

普通の四年制で、政経学部で法律の勉強をしていました。


寿司屋を経営していた父親に、

「学がないと父さんみたいに肉体労働をしないといけない。

お前はしっかり勉強して頭で稼げる男になれ」

と子供の頃から言われ、小学生時代から弁護士になりたいと思っていました。

しかし、大学に通った4年間で自分にはその能力がないことを思い知らされ、

一般企業に就職するため、就職活動をします。

時はバブルが完全に崩壊し、就職は超氷河期と言われる時代に入っていました。

有名大学でも就職先が決まらないときに、無名の3流大学では勝負になりません。

それでも地元企業で数社の内定を受けて

そのうちのある住宅関連企業の内定式に出席しあとは卒業を待つばかりという時にふと思います

 「机に向かって法律の勉強しかしてこなかった内向的な自分に、営業なんて仕事ができるわけない」

と。そして逃げ出しました。

卒業を直前に控えて、内定辞退しました。

会社はもちろん、大学からもめちゃくちゃ怒られましたが、

当時の私にとっては、それがベストの選択だったのでしょう。

ただ、営業という仕事を避けると、働ける場所がない。

路頭に迷っているときに、ふと新聞の求人広告を見ると

『病院総務職募集』

の文字が。

「これだ!これなら営業をしないで働ける」

私がこの世界に入ったきっかけはこんなくだらないことだったんです。

そして私が入ったのは措置制度時代の老人病院です。

もちろん、当時は『措置制度』なんて言葉は知りません。

ただ、家族からお荷物扱いされ、見放された年寄りがベッドの上でチューブに繋がれたり、

院内の狭い範囲を徘徊し続けている姿が印象的でした。

徘徊患者が事務所に来ると、無視するか、適当にあしらうか、

職員同士で、対応を押し付けあうか。そんな光景を毎日目にしていました。

それが、私が体験した『措置制度』の世界です。

そこに高齢者の笑顔はありません。それが『普通』だったんです。

 

介護保険がスタートして11年。そんな時代を知っている方もしだいに少なくなってきました。

介護が「食事、排泄、入浴などの身体のお世話」から「尊厳ある暮らしの実現」に変わり、

その理念が教育されていますが、実体験としてその変遷を知る『語りべ』となり伝えていきたい。

京都介護コンサル事務所

代表  太田 英樹

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